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suzuki-e-works blog

都築響一の『圏外編集者』を読む
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    都築響一さんは僕と同い年だが、フリーの編集者としては都築さんが大先輩である。僕は武蔵美の建築学科を卒業してゼミ担当教授の竹山実氏の紹介で『インテリア(JAPAN INTERIOR DESIGN)』の編集部に入れてもらったが、都築さんは学生時代から『POPEYE』の編集部でアルバイトをしていて、その後『BRUTUS』の建築、デザインなどの記事を担当されている。僕がフリーになったのは1988年の秋で、その頃から僕は『BRUTUS』編集部に出入りするようになったが、都築さんはすでに編集部にいなかった(これは余談だが、僕が「BRUTUS不動産」の連載記事を担当させてもらったのは、それから10年後の1998年から)。都築さんはおもしろいこと(もの)を見つける才というか嗅覚があり、常に僕の一歩先を行く編集者として敬服している。『圏外編集者』(朝日出版社)で、その都築さんがこれまでの編集の仕事について語っている。出版業界の雑誌のピークは80年代だと思われるが、その時代に僕も雑誌や書籍の編集の仕事に携われたことは、今考えると幸せだと思える。現在メディアは印刷物からウェッブにかわり、都築さんは自分のメディア(メールマガジン「ROADSIDERS' weekly」)を持ち、絵巻物のようなウェッブ頁を毎週制作してアップしている。ゆえに今が一番忙しいという。また、出版業界はブックフェアよりもコミケのほうが盛り上がっている状況を「ど素人の乱」だという。たしかに素人と玄人の境は、(写真やデザインもそうだが)あらゆる分野で消えつつある。これまでの仕事の経験値が通用しなくなっている。ならば、いっそ素人に戻り、できあがったものがウェッブなのか印刷物なのかによって異なるが、メディアの仕事しては同じである。かつて、専門誌と一般誌の仕事をすることでその間のジャンルの振れ幅を楽しんだが、(それがたとえ今はオンデマンドだとしても)グーテンベルグの時代のペーパーメディアからIT時代のウェッブメディアの今日までの間の歴史の振れ幅を楽しみたいと思っている。

     

    | - | 13:33 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
    桂離宮
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      「桂離宮は、後陽成天皇の弟・八条宮初代智仁(としひと)親王により、宮家の別荘として創建された。幼少の頃より文武百般に秀でておられた親王は、17世紀初頭にこの地を得られて後、元和元年(西暦1615年)頃に山荘の造営を起こされ、数年ほどの間に簡素のなかに格調を保った桂山荘を完成させた。親王の40歳前半の時期にあたり、古書院が建てられた」とパンフにある。その後、息子の二代智忠(としただ)親王が受け継ぎ、山荘の復興、増築などに取り組み、寛文2年(1662年)頃までに、在来の建物や庭園に巧みに調和した中書院、新御殿、月波楼、松琴亭、賞花亭、笑意軒などを新増築、池や庭園にも手を加えたと同パンフにある。花鳥風月を楽しくための施設とはいえ、この美意識とデザイン力、全体の構成力やディレクションは、インテリアデザイナー・建築家・ランドスケープアーキテクチャーの仕事として見ても素晴らしい。桂離宮の庭に関しては、イサム・ノグチの石を使った造園の仕事に影響を与えたのではないか、またジェフリー・バワが1970年の大阪万博で来日した際に桂離宮を見ていたら、その後のバワのルヌガンガの仕事にも影響を与えたようにも思える。しかし、ライト、ル・コルビュジエ、ミースと20世紀の現代建築を見てきたものには、古書院はモダン建築に見え、そのプロポーションも洗練されていて美しい。また、ライトの落水荘の回遊式庭園はこの桂離宮の影響を受けているようにも感じた。モダンデザインの原点がここにあるのでは…。

      | - | 18:41 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
      奈良寮に泊まる
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        僕の学生時代、70年代後半だが、武蔵美に奈良寮という宿泊施設があることは知っていた。卒業して40年、しばらくその名前を忘れていた。たまたま縁あって大阪芸大へ行くことなった。地図で見ると、大阪芸大がある南河内郡河南町と奈良寮は意外に近いことがわかる。近鉄喜志駅からJR奈良駅へ向かう途中、近鉄道明寺線という区間一駅しかない単線で2両編成の電車に乗る。昼間は1時間に2本というローカル線で近鉄大阪線と大和路線をつないでいる。過去(異境)へとタイムスリップしたいるような錯覚を覚えるのだが、これが不思議と乗り心地がいい。そして、奈良寮へ。ここも時間が止まっていた。

         

        | - | 21:53 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
        斑鳩へ
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          奈良、また斑鳩の里という地名から受ける印象なのか、惹かれるものがあり、中学時代から数えて半世紀ぶりにその地を訪れた。大学で日本建築史の授業を受けたが、法隆寺は日本最古の木造建築ということだけで、その魅力を知る術はなかったが、ライト、ル・コルビュジエ、ミースといった20世紀建築を見てまわってきて、いざ法隆寺を見るとその技術力、造形力、構成力など圧倒される。夏期に古美術研究といったようなものが僕の学生時代にもあったような気がするが、学生時代とはいわなくてももう少し若いときに見に来なかったことを悔やむ。「もし明治維新成立のとき、日本じたいの“近代”の要素(または風土)の上に欧米の近代を接木(つぎき)したとすれば、ずいぶんおもしろいことになったはずである。死児の齢(よわい)をかぞえるのに似ているが、明治国家のはての昭和初期も、あれほど思想として痩せた社会にならなかったように思える」(『この国のかたち1)と司馬遼太郎がいっているが、建築にもいえるように思える。日本の伝統建築に接木する建築教育ができていたら、日本の思想だけでなく建築ももっと豊かなものになっていたように思えるのだが。

          | - | 20:13 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
          聴竹居
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            京都・大山崎にある藤井厚二設計の「聴竹居」(1928年)は見に行く。この住宅は築90年、台風などで外観は一時期かなり被害を受けていたが、修復された。サーモンピンク色の外壁と黒い木製の構成が美しい。南側の縁側は、ウインターガーデンのようにガラスで被われ、庭側に突き出た二隅には(庭を眺めるためか)柱がなかった。しかし、風を室内に取り入れるために様々な工夫が施されていた。西側にある通風口から小上がりになった三畳の下に入ってくる装置は、自然エネルギーを利用したパッシブな建築計画といえる。また、藤井はインテリアデザインから、照明、家具、暖房器具、時計までデザインしている。室内の壁には和紙が張られていたが、かなり黄ばんでいた。当初はもう少し白く、室内もそれゆえ室内も明るかったことが予想できる。しかし、当時和服を着た妻のために、座面に奥行きがある椅子のデザインや子供部屋など、家族一人ひとりへ思いが形になっていた。1930年代半ばに撮られた藤井家の家族写真があるが、夫婦は和服、3人の子供たちは洋服、家族のライフスタイルがそのまま住居に反映した、等身大のデザインになっている。日本の将来の住まいを考えて設計された実験住宅であり、「環境共生住宅の原点」とパンフにあったが、原点は各地に根差した古民家であり、日本の建築教育はこの部分が、日本文化も含め上手く接木ができてこなかったように思えるのだが。

            | - | 15:22 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |